1179)
の続きです。
S61年、国鉄改革の流れが決定的になってきました。
以下、国鉄分割民営化が決まってゆく過程をwiki から引用させていただきます。
昭和61年2月12日に「国鉄改革関連法案」の一つである「日本国有鉄道の経営する事業の運営の改善のために昭和61年度において緊急に講ずべき特別措置に関する法律案」が第104通常国会に提出され、3月18日にはその他7つの国鉄改革(分割民営化)に関する法案も提出された。これらは6月2日に第105通常国会で衆議院が解散したことから一旦廃案となるが、7月6日の衆参同日選挙(第38回衆院選・第14回参院選)で改革推進派の自由民主党が圧勝したことから分割民営化は決定的となり、9月11日に第107臨時国会で「国鉄改革関連法案」は再提出された。(引用 終わり)
国鉄が存在するうちにやれること、やらなければならないことを済ませておいて、移管後の民営会社を安定させよう、ということでダイヤの改革が急速に進みました。
主な視点および方針は以下の三つ、
①赤字ローカル線の大幅削減。---特定83線区のバス転換により廃線を進める。
②鉄道が優位性を発揮できる分野への集中投資。---地方都市周辺の普通電車の運行頻度増加(=シティ電車方式で短時間等間隔運転)と中距離都市間旅客輸送の増強(=所要3時間以内の中・短距離特急増発)
③貨物列車の効率化。---一般の混結・解結貨物列車の廃止と直行コンテナ列車への集中化、全国の操車場廃止。
これらの方針にそって、 S61年には3月3日、11月1日、S62年3月23日(四国のみ)と、S62.4.1の分割民営化直前に 3回の大きなダイヤ改正が実施されました。
以下、S61年3月3日改正の時刻表を見てみます。(公社版 1986年3月号から)
千葉に関係ある項目がトップに記載されています。新顔の京葉線が第一期開業、西船橋〜千葉港(みなと)で、当時は千葉港、と漢字表記でした。「ちばこう」と発音する乗客が多く、千葉校とか千葉工とか紛らわしく、後に「千葉みなと」という表記に変更されました。
次の項目に埼京線の池袋〜新宿間延長開業、山手線などに土曜ダイヤの新規設定、特急ホワイトアロー新設、あずさスピードアップなど。
2シーズン目をむかえていたスキー臨シュプール号。このあと年ごとに設定が増え、1990~1991年頃にピークを迎えます。
↓さみしい話題も。
赤字ローカルの廃止で生まれたバス転換路線の時刻表。転換後何年かはこうして前の方に大きく掲載されていましたが、だんだん各地区に組み込まれて目立たなくなってゆきました。
このころはまだ第一次特定線区が対象なので、盲腸線が対象。廃止もむべなるかな、と思っていましたが、次第に廃止対象線区は拡大。ついに北海道の路線網の中核を成すような長大路線(名寄本線・池北線・標津線・羽幌線・胆振線など)まで廃止の憂き目にあうことになります。
それにしても、新幹線の札幌開業時には函館本線長万部~小樽間が廃線となります。早々に決まってしまった印象ですが、函館本線山線が廃止になるなど、当時は想像だにできませんでした。
以下、「わかしお」「さざなみ」にかかわる部分について。
まず、183系9連(2号車にグリーン車)と北総にモノクラス6連が一部あり、のみだったマリ183系に、モノクラス6+3連が登場し、閑散期・繁忙期で編成の使い分けをし、本数増加と効率化が図られました。
「わかしお」は全12往復中 8往復がG車付き、4往復が通年モノクラス。G車付きの8往復の内3往復は閑散期にモノクラス6連になります。一方 通年モノクラスは閑散期6連、繁忙期にモノクラスのまま3両増結で9連に。これが注目の的でした。183系の運転席の下の貫通路がやっと生きる、と。
「さざなみ」は一応全12往復ともG車付き9連、ただし閑散期にモノクラス6連に削減されるのが4往復あります。6+3はありません。
「しおさい」は「わかしお」とおなじ考え方で、繁忙期に6+3が見られました。「すいごう」は登場時からずっとモノクラス6連ですが、今回から「あやめ」もG車付き9連だったのが 通年モノクラス6連になりました。
幕張183系のS62.3時点の配置表です。
183系は、G車付き9連は当初の19本が1〜13の13本に集約され、非貫通クハはその後半の8〜13の6本に整理されました。
一方、モノクラス6連が12本も誕生し、その内の下り方3両に奇数の編成番号、上り方3両に偶数の編成番号がふられました。モノ9連を組むときに3両ユニットを増結する考え方です。この6連は21+22に始まり、43+44までの12本です。
では、モノクラス6+3連のサイドビューを。
1987.3.13 11:27 23Mわかしお5号 東京9:15発→11:31安房鴨川
安房天津~安房鴨川で、進行は→、右が鴨川方です。
この編成は附属3連が偶数方(3~1号車)に付いていますが、この逆もありました。
このように付属3連が上り方に付く場合、上り方を向いたクハ183のとなりにパンタのあるモハ183がきます。パンタは下り方のみ上げ、でしたので距離がきわめて近く、走行中のパンタからの飛散物で クハの高い運転席の窓が汚れやすくならないか心配されました。
この中間運転席の下を初めて通り抜けられたときにはわくわくし、何度も行ったり来たりしたり、細部を観察したりしてなかなか立ち去り難かった覚えがあります(笑)
以下、「わかしお」「さざなみ」の時刻部分。S61年3月3日改正
順番に、外房線-1、-2、-3、内房線-1、-2、-3の順。
▲1,などという書き込みがありますが、改正で所要時間が短縮したものです。
東浪見~長者町間、新茂原~茂原~八積がまだ単線の時代ですが、新茂原以北は複線化が成っていました。これと津田沼~千葉複々線化によるスピードアップで、特急同士の上総一ノ宮交換は南へ2駅ずれ、太東に移りました(ほぼ)。下り運転停車・上り通過が多いですが、一部にその逆もあります。
もう一つの交換駅は勝浦の場合と鵜原の場合があります。(東京発9:15の23Mは別)
251M(千葉14:22→16:44安房鴨川)にマル印がありますが、これは113系6連の下り寄りに郵便荷物車付き列車だというメモ。276M(安房鴨川17:36→19:52千葉)や167M(千葉14:18→17:02安房鴨川)、2122M(安房鴨川17:14→20:07千葉)も同様。両国でクモユニに積み込んだ新聞を各駅に運んでいました。
この頃になると、早朝4時台に千葉を発車して 安房鴨川を往復する第1便は、外房線・内房線とも廃止されていました。
「さざなみ」はあまり変わっていません。特急同士の交換駅もほぼ一緒で、大貫(毎時48~50分ごろ)と岩井または安房勝山(18~20分ごろ)です。
(続きます)