1100) の続きです。
今回は民鉄編。
まずは 琴電の1100形。
たまたま 2017年11月に四国に行ったときに琴電1100形は撮ってありました。
2017.11.22 琴電琴平線 太田~仏生山にて
琴電の1100形は もと京王電鉄の5000系を譲受したもので4編成8両あります。
これは 1107+1108←高松方
同列車後追い
「にこるん 食べルン 香川県」のマーク付き
以下、琴電の公式HPから 思いをこめて転載させていただきます。
京王帝都電鉄(現・京王電鉄)5000系を種車に、平成9年6月から11月にかけて4編成8両が投入されました。
京王5000系は昭和38年から44年にかけて製造され、前面にパノラミックウインドウを採用するなど、当時としては画期的なデザインで昭和40年代の京王線の主力となりました。車両の世代交代により、平成8年12月1日をもって京王線から引退しました。一部の車両は富士急行・一畑電気鉄道・伊予鉄道で第2の人生を送っています。
ことでん入線に対して、第1・第2編成は先頭車からの改造で4両とも電動車化改造を行い、さらに奇数車(1105号・1107号)はパンタグラフの取り付けが行われました。台車は京王線が1,372m、ことでんが1,435mと異なるため京浜急行電鉄1000形の台車に履き替えました。
参照→941) 高松遠征(5)琴平線 仏生山、どん曇りになってきたが、コスモスに元気づけられる。
939)高松遠征(3)まずは琴平線仏生山へ レトロ電車を見に行く
次に、江ノ電の1100形。
正式には1000形の一部ですが、S56年に登場した2次車ではナンバーが 1101+1151 となり、1000形のマイナーチェンジ版です。1次車(S54年登場の 1001+1051、1002+1052)との変更点は、常用ブレーキの段数変更(5段→7段へ)や、前照灯取り付けの切り込みの角の形状、補助電源装置や電動空気圧縮機(CP)の変更などわずかなものですが、ナンバーが一気に 1101+1151 になりました。
なお、S54(1979)年登場の1000形(1001+1051、1002+1052)は、それまで旧型車ばかりだった江ノ電に新風を巻き起こした 48年ぶりの新造車でした。S55年のブルーリボン賞を受賞しています。
その後、マイナーチェンジを重ねながら、3次車(S58年の 1201+1251)、4次車(S61年の 1501+1551)、5次車(S62年の 1502+1552)と発展し、全6編成12両を数えます。
1990.4.24 藤沢行を後撃ち 1151-1101+1052-1002(黄緑色)→藤沢方
極楽寺~稲村ヶ崎
結局 この日は、ここから江ノ島まで歩きとおしてしまいました。
1990.4.24 11:47 鎌倉行
1002-1052+1101-1151→鎌倉方
301+351が江ノ島区に休む脇をぬけて、この先で併用区間の交差点に入ってゆきます。
このときの 他のカットをいくつか載せてみます。
11:15 左:鎌倉行き 305F+303F(→鎌倉方)の4連 後追い
右:藤沢行き 1002F+1101F(←鎌倉方)の4連
七里ヶ浜~鎌倉高校前の信号所にて
1000形は、1100形と塗色の違いを除けば 外観はほとんど一緒ですが、前照灯のくぼみのカドが角ばっています。
11:45 藤沢行 1001F+1501F(←鎌倉方) の4連
腰越~江ノ島の龍口寺前付近で
12:01 2001Fの2連 鎌倉行(後追い)
江ノ島~腰越
このとき 2000形には初見参でして、それもそのはず、この日が営業運転の初日なのでした。現車を見るなり 大胆な前面のデザインに仰天し、どーしても乗りたくなってしまいました。
前面の行先表示も 国鉄のフォントそのままのように見えます。これ、今ではポイントが高いです。
江ノ島駅から乗車するのに、何本か待ってようやく乗車を達成したと思います。乗車中はずっと気分がわくわくで 高揚したままでした。
この2000形は、4両編成での運転が不可能なうえ 老朽化していた600形の置き換えとして1990年から1992年にかけて2両編成3本の計6両が東急車輛製造で製作されました。性能面の向上・充実はこの前の 1000形1501、1502編成で確立したため、旅客サービスの向上を追求し、このような素敵なエクステリア となりました。
では、2000形にバトンを渡して 去ってゆく600形を少々。
この日、600形のさよなら運転が行われていました。
といっても、単線で ダイヤがパンパンに過密となっている江ノ電で臨時列車を運転できるハズもなく、定期列車です。
1990.4.24 10:34 600形2連 鎌倉行き
稲村ヶ崎~七里ヶ浜
11:01 藤沢行き(下も)
10:48 藤沢行き4連
501-551+304-354←鎌倉方
稲村ヶ崎~七里ヶ浜
300形・500形はこのように4両編成を組むことができるので残り、2連オンリーの運行を強いられる600形が先に引退となったのでした。江ノ電の乗客増加を物語っています。
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次に、阪急の1100系。これも1000形の派生形式で、色々調べてみました。。
まず1000形は、旧型車の淘汰・更新のために1954年に試作された試作車でした。その実績を踏まえて改良した神戸線用の量産車が1010系で、1956年に神戸線に投入されました。
その宝塚線用が1100系で、最初は宝塚線専用として設計されました。両者はほぼ同じですが、MT比、歯車比の違いがありました。
歯数比は 神戸線用で全電動車の1010系が4.16、MT比1:1が基本の宝塚線用1100系が5.76 でした。
のちに、神戸線の5両編成化時に1010系もMT比3:2に再編され、歯数比を5.76へ引き下げたため、最終的には両系列の走行性能は統一されています。1010系を1100系にあわせるかたちで。
1979(S54)年10月2日 宝塚線の1100系1111ほか
宝塚発梅田行き 十三にて
ナンバーが印象的な1111 を先頭にやってきました。1958年12月ナニワ工機製。阪急車といえばナニワ工機は切っても切れない縁ですね。
今になってしらべてみると、この1111(Mc 梅田方)+1161(Tc 宝塚方) の2両は、4連時代は宝塚方に連結されていたようで、つまり1111は中間に埋められてしまっていました。しかし編成増強で梅田方先頭に1111が立つ姿を見れるようになりました。
同じシリーズで、神戸線用の1010系、宝塚線用の1100系に対して、京都・千里線用には
この 1300系が登場しました。
S54年の同日、北千里発梅田行きの1300系1303他 十三にて
窓わくが木製なのがいいですねえ。
このころ、友人の大学が箕面に移転になってしまい、その友人の寮に遊びに行った帰りだったような。
当時の阪神間は、国鉄ではなくて阪急か阪神の利用がもっぱらでした。神戸市西部方面に帰るにも、大阪から国鉄には乗らずに、阪急(三宮乗換)か阪神(元町乗換)でした。貧乏学生には、所要時間が速いよりも運賃を節約することが大事でしたので。
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関東周辺では、いずっぱこ(伊豆箱根鉄道駿豆線)に1100系がありました。
西武鉄道(伊豆箱根鉄道の親会社)より 701系電車4両編成 3本を1989(平成元)年8月と1990(平成2)年5月の二度にわたって譲り受けたものです。本系列導入によって駿豆線の冷房車比率は66.7% に向上したとのこと。
導入に際しては4両編成で譲り受けたものを、クモハ1100形-モハ1200形-クハ2100形から構成される3両編成に組み替えています。
なお、本系列の車両のナンバーは、代替対象である1000系第5 - 7編成のものを継承しているため、形式は「1100系」であるものの、ナンバーに1100~を付番された車両は存在しないとのこと。
2012年1月に いずっぱこを訪問しましたが、そのときには車庫に入ったままで運行はありませんでした。残念。
画像お借りしました。↓
2012年6月 伊豆箱根鉄道大場
「ありがとう1100系」 の さよならマーク付き
以下、次回に続きます。