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の続きです。
実は、この記録を掲載してどうなのか?と思い悩むことがらですが、183系の廃車・新造もからむし、「さざなみ」の半世紀にとって忘れられないエポックメーキングなことですので、あえて載せてみます。
S48年11月23日(祝日)、私は内房線を下ってきた155系(田町車 元修学旅行専用)の団臨を追っていました。いい天気でした(写真によると)。
現在のDJ誌は、当時は「SLダイヤ情報」だったと思います。SLの情報中心で、電車による団臨の掲載はなかったかと思います。
どこで情報を得たかは定かではありませんが、館山①に到着する宇都宮からの155系8連(日本旅行主催の団体臨)を撮ると、すぐに155系は安房鴨川方へ発車してゆきました。その後次の下りで追うと、安房鴨川まで行ってもいない。勝浦方へ追うと、上総興津で155系の折返し下り(館山方面へ向かう回送らしい)と交換。そこで下車して撮り、この日はそれで終えました。どこまで回送されたかはわかりません。(この団臨についてはいずれとりあげます)
翌11月24日、安房鴨川から内房線方向へ発車してゆく155系を昼頃(11時台後半?)に撮り、内房線上りで追おうとすると、なんと、内房線運休のポスターが!!
でもよく見ると、「12:30ごろ開通の見込み」とのこと。
そうか、さっき出て行った155系は開通初便なのかもしれない・・・と。12時台の内房線上りは千倉止めが解除されそうなので乗って追うことに。
この時までは事故のことはあまり知らなかったかもしれません。
館山駅まで行っても155系はおらず、もう行ってしまったか?となんとなく木更津まで追うことに。
事故現場 平久里川の橋梁が近づいてくると15Km/h制限に(この前のコマに制限標識が写っていました)。
72系はゆっくりゆっくり進みます。そして進行右側には目を覆いたくなるような光景が!!
転がっているタイヤは当該トレーラーのもの?
子供たちが乗っているのは荷台の一部か?
それにしても、こんな危険な場所への立ち入り、規制されなかったのでしょうかねえ?
クハ183-17についた横方向の折り目は、まさに衝突した荷台の上辺部分なのでしょう。
それにしても見物人が至近距離まで来ていて、危険はないのでしょうか?今なら立ち入り禁止になるでしょうねえ。
クハ183-17。2両に見えますが、折れていてこれで一両。
2両目(モハ183-25)から9両目(クハ183-18)までは、那古船形駅上り線にいました。DLが救援で牽引?
上り72系普電は、下りホ−ムへ逆向きに進入。青堀〜那古船形間の両方向発着可の設備が生きました。と同時に、早く開通させようという心意気も感じられます。転覆もした事故は昨晩ですよ。
モハ183-25。妻面 右上のあたりにゆがみがでています。
2両目以降、よくご無事で!!
もっとも見えない部分の装備が大丈夫かは今後精査なのでしょう。
左から MM'ユニットの25・26・・・
・・MM'-27、Ts-9、Tc-18→東京方
結局、木更津まで追っても 155系は行ってしまったようで会えませんでした。
事故の概要↓
日本の鉄道事故 (1950年から1999年) - Wikipedia
不幸中の幸い、けが人が重傷・軽傷あわせて35人とのことで死亡者はいなかったとのことです。
そういえば、この24日の上りわかしお3号(安房鴨川12:22発)の乗務員氏が乗務で乗り込むところの会話を耳にして、当時のメモにありますが、「(さざなみの事故に関して)この運転席ならぶつかっても死にゃあしないさ・・」と。なるほどーそういう感じなんだな・。
急行「うち房亅に165系が新製投入されたときも、早々に(新製から1年3か月)浜金谷南側でクハ165-202を失っているし、あの悪夢(それは豪雨災害)を思い出させる事故でした。
(以降、S49年分に続きます)